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さてと、どうすっかなこのブログ

折れない心と月600時間労働

“折れない心”の育て方 - NHK クローズアップ現代
アニメ制作で過労自殺 カルテに「月600時間」 28歳男性、労災認定 ― スポニチ Sponichi Annex 社会

 
 この2つを並べてしまった時点で賢いブロガーならもう筆を止めているのかも知れないが、自分は適当にダラダラ長文を書くのが好きなので少し語ってみる。

 「折れない心を持つ」というのはいつの時代でも重要な事だっただろう。しかし、同時に「心がどうして折れそうになるのか」という視点を持つことも重要なはずだ。
 
 そもそも、魂という概念を信じないのであれば、心というものは脳みその機能の1つだと言える。脳みその機能として心があるという事は、心が「人間にとって必要な機能」である可能性が高いということだ。
 もしも心なんてものが進化の過程に生まれた欠陥でしかないのならば、人間は自然界において淘汰されていただろう。少なくとも、心を持った人間は生き残り競争から脱落していたと考えるべきだ。
 そして私は「心が折れる」という現象は、「心が持っている重要な機能の1つ」だと考えている。病気になった人が「痛みがあったから病気が進みすぎない内に病院に行けた」と言うことがたびたびあるが、「心が折れる」というものもそれに近い性質のものなのではないだろうか。
 「心が折れた状態」とはつまり「今までの経験の蓄積によって形作られた人格が、危険信号を出している」という状態だ。それはすなわち「手を引いた方がいい」と「体の一機能がSOSを出している」事にほかならない。そこで手を引かなければ成功が待っているかもしれないが、時には過労死のような大失敗も待っているだろう。ようするに心は機能の1つとして「第二の痛覚」としての働きを担っているのではないかということだ。
 つまり、「心が折れないようにする」というのは「痛覚の一部を鈍くする」のとニアリーイコールとなりうる。確かに小さな痛みにすぐうずくまっていてはどうしようもないが、痛みを感じる事も1つの能力であるという視点を失ってしまうのもそれはそれでどうしようもないだろうか。
 「あのとき心が折れたから、命や人生がへし折れずにすんだ」そう言えるような経験をした人が世の中にはたくさんいるはずだ。少なくとも私には、今回の600時間労働のソレはそういった類の事態に見えた。