『ゲームのトロフィーや実績』は、『灰色の男たち』なのか?
やりこみとの出会い
僕らの世代は子供の頃みんな一度はポケモン図鑑を完成させようとした事があった。あるものはポケモンブームが下火になってから火がついたせいで通信進化の相手をうまく見つけられず、あるものはバグを繰り返しすぎたせいでロムが壊れて諦め、あるものは途中で虚無感に襲われて投げ出した。そうして多くのものがポケモン図鑑を完成させられずに終わったが、それでも僕らは一度はポケモン図鑑の完成を目指していた。
ポケモン図鑑を完成させようとする動機が「ポケモン全部集めようとしたら楽しそうだ」だったのか、「図鑑を埋めた後のイベントを見てみたい」だったのか、「図鑑を埋めて自慢したい」だったのか、「ゲームのすべての要素を味わい尽くさなくちゃ勿体無い」だったのか、その理由を今となっては思い出せない。
今思えば、あれが僕とやりこみとの出会いだった。
そして僕は挫折した側だった。
そして今でも挫折し続けている。
大部分のゲームに可視化されたやりこみがある時代
今世の中にある多くのゲームには「実績」や「トロフィー」というやりこみ要素が付加されている。その起源がどこにあるのかは自分も覚えていない。ゲーム内に実績の要素を持つゲームがチラホラと出てきて、そして気づいたらゲームのハードやアカウント自体がやり込み実績を記録し始めていた。自分の認識はそれぐらいアヤフヤだ。それぐらいアヤフヤにいつの間にか多くのゲームに実績がついてくるようになっていた。
実績とはすなわちやり込み要素だ。「やりこみってのはなぁ、もっと深くて高いものなんだよ!」と熱弁を振るう人は居るかもしれないが、自分のようなヌルいゲーマーにとっては実績の解除でも十分なやり込み要素になる。
人によって『やりこみ』の定義は違うだろうが、自分にとってのやりこみは「エンディングを見るなどして十分そのゲームを味わい尽くしたと思っているのに、とある目標へ向けて黙々と退屈な作業をし続けてしまう状況」である。定義はやはり人によって違うだろうけど(大事なことなのでもう一度言った)
そして今、自分の定義を当てはめると世の中はやり込み要素のあるゲームだらけという事になる。そしてそれらは可視化され、時に「ただいま◯◯%まで実績解除」などと表示されてすら居る。
「奴ら」は灰色の男たちなのか
ゲームの実績は素晴らしい物である。なぜなら実績はプレイヤーにそのゲームをとことんやっていく際のマイルストーンとなるのだから。時にネタバレをかましもするが、「あの敵が実は倒せるのか!?」「敵に一度も見つからずにクリアする事も可能なんだな」とプレイヤーに目指すべき目標を次々に気づかせてくれる。どうゲームと付き合えばいいか、どこまで深く突き詰められるのか、それは実績が教えてくれる。実績はそのゲームをひたすらやり続けようとする人間にとって良き友人になってくれる。
ゲームの実績は憎たらしいものである。なぜなら実績はプレイヤーがそのゲームをどこまで浅くしかプレイしていないかを白日の下に晒すのだから。今まで積み上げた物を教えてはくれるが、「あのアイテムがまだ全部集まっていない」「あの難易度をクリアしなければ『このゲームをプレイした』なんて堂々と言えないのではないだろうか?」とプレイ量・密度の足りなさを突きつけてくれる。いつまでそのゲームと付き合わなければ、どこまで無茶な要求をこなさなければゲーム機やアカウントに「実績解除率95%」といった烙印が残り続けるのかを淡々と表記し続けてくる。
完璧主義に陥ったゲーマーにとって実績ほどの時間泥棒はない。「プレイしたいから」ではなく「実績を埋めたいから」とつまらなそうに、時に手探りに、時に攻略サイトを見ながらマップの隅々まで探索を続けるのはもはや作業以外の何物でもない。
なぜそんな作業を続けるのかと問われた時、僕らは「そこに実績があるから」と言うのだ。それが面白いのかと尋ねられれば「でもやらなくちゃいけない気がするから」と答えるのだ。それが果たしてゲームをプレイしてる時間の人間の感情として正しいのか。自分には分からない。自分はまだその答えを出せるほどゲームと向き合ってきていない。しかし今の自分が自分なりの答えをだすのなら、それはきっと「時間の無駄」になるのだろう。盗まれた時間はどこに消えるのか、なぜ積極的に時間を盗ませてしまうのか、答えはまた分からない。
やり込みはゲームの本質の一つである、分かってはいるが
やり込む事はある意味ゲームの一つの本質なのは自分だってわかっている。やり込みが不可視だった時代、ハイスコアや連勝数ぐらいでしか語る事が出来なかった時代からやり込むことはゲームの一つの本質だった。ひたすらやり込んでやり込んで最初の頃の自分が見たら「ありえねー」と思えるプレイが出来るようになるまでプレイする。その繰り返しと積み重ねこそがゲームの一つの本質である事は自分もよくわかっている。
だけどゲームは増えすぎた。そして自分にとってゲームは人生の大部分を占めるにたる要素ではなくなった。生きるためのお金稼ぎ、将来の不安、アニメや漫画といった他の娯楽、etc人生の意味は細切れにされ、不揃いなパイはどれも「その一つのために他の多くを犠牲にする」という行為を取るに足るものではなくなってしまった。
ゲームだけやっていられないのだ。ゲーム以外もやりたいのだ。やらなくてはいけないし、やっておきたいのだ。そしてゲームも一つのゲームだけでなく、多くのゲームをやりたいのだ。そんな自分にとって実績は多くの場合「時間を盗まれることでやり切ったという安息を得るか、次のゲームにさっさと行くために中途半端な気持ちを胸に残すか、その選択を迫ってくる存在」になってしまう。これは自分が単に実績という物と上手く付き合えない性格をしているからというだけなのだろう。人によって「目標」となるものが、自分にとっては「枷」になっているのだ。実績はきっと悪くない。悪いのは自分との相性だ。
モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)
- 作者: ミヒャエル・エンデ,Michael Ende,大島かおり
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1976/09/24
- メディア: 単行本
- 購入: 21人 クリック: 479回
- この商品を含むブログ (253件) を見る