跡地(暫定)

さてと、どうすっかなこのブログ

一ヶ月毎日ブログ更新した感想#2  ブログのネタ探しは疲れた。きまぐれ更新に戻ろう

毎日ブログ更新をした感想#1 記事ってかけない時は本当に書けない - 跡地(暫定)

 昨日は「毎日ブログ更新しようとするとネタがなくて大変だった」という部分を書いたので、今日は「毎日ブログ更新する事で得られた物」について書いてみる。

ネタを探そうと必死になれた

 ブログを更新しようとするのにはネタがいる。中身はなくてもとりあえず上っ面だけでも何か書くことがないと記事にはならない。全くなんでもない事を書いた日も1日2日あったけど、それ以外の日は映画の感想なりで強引に埋めようと努力した。そうすることで毎日に少しは活気が出た。映画を見るときも「これをブログに纏めるならどんな内容になるだろうか」と考えたし、何気ない思いつきで記事を書くときもそれは普段の思いつきよりも何段階も進んだ物にまで煮詰めることが出来た。
 ブログを更新しようとする意識が、日常にアンテナを張り巡らせるいい機会になった。散々人から聞いてたけど本当だった。ただそれだけの感想でしかないけど知識ではなく自分の経験として実感できたのは良かった。言葉ではなく心で理解した。
 
 だけどそれは僕には合わなかった。得られたものよりも失ったものの方が大きかった気もする。
 

アンテナ張りっぱなしは僕にはあわない

 ブログのネタを探すためにアンテナを伸ばすということはプラスばかりじゃない。ブログのネタを探しながら生きていると日常の中で「これをブログのネタにするには」という思考が次々入り込んでしまうが、これによって経験が「自分の経験」から「人に伝えようとする経験」に勝手に昇華され初めてしまう。人に伝えるような経験にする前にまず自分が自分のためにじっくりと味わおうとしてる段階で、オートでブログのネタに変換しようする思考回路が回り始めてしまうのだ。これは困った。こうなると体験が濁ってしまうからだ。
 「人に伝えられるようにする」ということは相手に分かりやすいように情報を適切に削ぎ落とすという側面を持つ。つまり自分の中にあるうまく言葉で纏められないモヤモヤした物の何割かは、無理やり言葉にまとめる努力をしても駄目だった場合は捨て去られてしまうということだ。体験した事を思い出している時にこれが起こるのはまだいい。だが体験中に起こるとちょっと困る。言葉に出来ない部分が積み重なる事でこそ自分なりの体験が生まれると僕は思っているからだ。他人から聞いた感想では絶対に追体験できない何かが、言葉では表現しようのない部分に秘められている。もしもこの仮説が正しいのならば、始めから言葉で表せるような体験ばかりを抜き取ろうと思いながら何かを体験していくのはやや「邪道」にあたると言える。
 それとブログのネタにしようとしてると視点が客観的になりすぎて熱中度が落ちるのもいただけない。自分の体験を俯瞰的に見る視点を持つことに脳のリソースを割くのは、仕事や議論の最中、そして自分の体験を振り返っている時だけでいい。何かに夢中になっている時は脳の9割を使って夢中になっている方がやっぱり面白い(1割は電話やメールの着信を聞き逃さないように残しておく)。
 以上の理由から、何かを体験している最中はそれをネタにするしないなんて考えるのは僕の性に合っていないことが分かった。そしてブログの更新に追われることがまさにそれを引き起こす。貪欲になんでもネタにしようと目をつける気持ちが自分の中から現れてきて勝手に脳のリソースをネタの受信と整理に使い始めてしまう。この点において、僕に毎日ブログを書くことは合わないという結論に達した。


 要するにこれからは「ブログのネタにしたいものがあったからブログを更新する」という健全なスタイルに戻るということだ。毎日何か文章を書く機会は日記に譲ることにしよう。僕はブログは好きな時に好きな様に書くのが一番いいというタイプの人間だった。ブログを無理に書こうとしなければ、ブログを書いてない時間も楽しくなる。無理にでもネタを探そうとすることは毎日を少し楽しくするけど、その何倍も毎日が楽しくなくなってしまう。差し引きでマイナスだ。僕はそういう人間だった。やってみてその事が分かった。合う合わないを試す前は「もしかしたらブログを毎日更新したら何かプラスの変化がおきまくるのでは」という妙な期待があってそれを実行していない自分にモヤモヤしていが、今は試したことでそのモヤモヤが晴れた。挑戦したこと事態は正解だったと思う。これはきっとバイアスなんかじゃない。