跡地(暫定)

さてと、どうすっかなこのブログ

プロレスは「格好いい」を表現する場所だと今更気づく

 昨日までプロレスがどうして人気があるのかがよく分からなかった。でも布団の中でゴロゴロ転がりながら考えている時にふと理解した。プロレスは「格好いい」をリングや格闘技を使って表現する場所だったんだ。「何を今更」という話かも知れないが自分的には大きな気づきだった。もちろん「そうじゃないプロレスはそうじゃない」という意見もあるかも知れない、何せ僕はプロレスに全然詳しくなくてこの考えも布団の中でふと気づいただけの事なのだから。
 
 「プロレスはヤラセ」というのはよくあるプロレス批判だ。自分も実際そういう所が嫌でプロレスを長年バカバカしいと思っていた。
 「プロレスはヤラセじゃない」という人は下の動画を見てほしい。下の動画はヨシヒコというプロレスラーの試合なのだが……中には「ダッチワイフ相手に戦うようなのはプロレスじゃない!」という意見もあるだろうが、僕が今回話す『プロレス』はこっちの『プロレス』なんだ。


 
DDT - 11.10.2009 - Kota Ibushi vs Yoshihiko ...

 決められたブックを基準に動き、時には相手の技を自分から受けに行く事すらするプロレスの世界を僕は長年「何の意味があるのだろうか?」と思っていた。自分は格闘技の試合を「最強を決めるために行うものだ」と考えていたから、そこに八百長じみた要素があっては何の意味もないと考えていた。だけとふと思った、「ボクシング等の試合を観戦してる人は勝ち負けだけを目的に試合を見ているのだろうか?」と。
 極論を言えば勝ち負けだけが知りたいのならば新聞で結果を見ればいいことだ。だけど、試合会場に足を運んだりテレビ越しに闘いの様子を見守るということは、最強を決める過程そのものに僕らは価値を見出しているということだ。”最強を決める”という物語の中でお互いが得意技を次々に繰り出す様子は実際「格好いい」としか表現しようがない。そして僕らはその格好良さを求めて試合を見たり格闘技が題材の漫画を読んだり映画を見たりする。
 その目的は、「格好いい」を体験したいからだ。お互いの鍛えあげられたからだから打ち出される「破壊力」の押収を、相手の必殺技を受けてなお勝利を諦めずに立ち上がる姿を、その格好良さを僕らは確かに求めていた。「最強」が誰に決まるのかも大事だったが、「最強」を目指す姿に「格好いい」を感じる事も同じく、いやそっちの方がもっと重要だった。
 ならば、受け手が「格好いい」と思えるのならダッチワイフ相手に真剣に技を繰り出すプロレスラーがいても何の問題ないのだろう。プロレスのブックだって「格好いい」を生み出すために有効なら有りなのだろう。「格好いい」はドラマチックな物語の中でこそ生まれる。ロッキーや幕之内一歩が最初から業界3位あたりのボクサーから出発して優勝しても物語はイマイチ盛り上がらない。観客が求める「格好いい」のために鍛え上げられた肉体を使って演技をする、それは確かに「需要」があり「価値」のある行為だ。
 こんな事に気づくのになぜか自分は長い時間がかかった。どうしてこんなに時間がかかったのか分からないが、人生にはそういった「なんでこんなに気づくのに時間が……」という物がよくあるというのは既に知っているのであまり落ち込みはしない。前向きに「よっし、気づけたぞ」と思っている。