跡地(暫定)

さてと、どうすっかなこのブログ

過去の自分を貶めてまで現状の自分を肯定する事の是非

人生やってると時折「今の俺は昔と比べて立派になった」と思うことがある。
他人が「俺も昔と比べて良い人間になったもんだぜ」と言ってるのもよく見かける。
子供の頃なそれは大抵何もおかしくない発言であったと思う。
だが、ある程度の年齢になると、昔と比べて成長したと口にした時に、
客観的に見て本当に人間としてプラスの方向に向かったと言えるのかどうか怪しくなる機会が増えてくるように思う。
そもそも「成長」の概念自体が曖昧なものだ。
あくまで「環境に適応した」に過ぎないのに「成長した」と言い張ってしまう事は凄く多い。
「環境にはどの程度適応したほうがいいのか」「流されっぱなしの人間でいいのか」みたいなのはややこしいので今回は置いておく。
今回考えてみたいのは「今の自分を肯定するために過去の自分を蔑ろにするのはどの程度までオッケーなのか」という事だ。

みんな今を肯定したい

人間が物を考えると認知バイアスがしょっちゅう入り込む。
ネット住民の皆には今更説明するまでもない単語なので細かい説明を省くと、認知バイアスというのはいうなれば「人間が持つ思考の悪癖」みたいなアレだ。
その認知バイアスの中に「今自分が置かれてる状態を肯定しようとして情報や価値判断を歪めてしまう」という物がある。現状維持バイアスという奴だ。
人間は習慣や自分を変更する事を嫌う傾向がある。面倒くさいからだ。
そのため、ふと自分が今置かれてる状況や自分自身の内面を見つめた時に「今の自分は上手くいっている」と考えてしまう。
その際に他人や過去の自分まで巻き込んで「あの頃(あいつら)よりはマシだ」と考えてしまう事すらある。
そうやってバイアスに巻き込まれて否定された過去の自分が時折可哀想になる。
あの頃と比べて自分が「劣化してる」なんて思いたくない。「成長している」と思いたい。これは紛れもない事実だ。「思い込みでもいいから自分は成長していっていると信じたい」ぐらいまで言ってしまっても何も間違っていないのかも知れない。
だけど、そのために過去の自分をやたらと「若くて愚かだった」「体力だけで何でも出来ると思っていた」と必死にコケにして相対的に今の自分の立場を水増しするのは何だかおかしいと感じるのだ。

だけど今は肯定すべきだ

なにも今の自分を無理やりにでも肯定するのが完全に間違っていると自分は思っていない。
「過去や未来を素晴らしいと思えるかどうかは今の自分の現状で決まる」という言葉があるが、実際その通りだ。
今を幸福だと思っているときは過去の悪い事も「あれはあれで良かった」と思えるし、未来の曖昧さも「夢が広がっている」と楽しめる。
逆に気持ちが沈んでいるときは過去の素晴らしい事も「あんな事ではしゃいじゃって……」と考え、まだ何も決まっていない未来にまで「きっと全部上手くいかないだろう」と穿った見方をしてしまう。
人生を楽しく豊かに生きたいのならなるたけ今この瞬間は肯定したいものだ。
ただその際に「わざわざ過去の自分をコケにする事」、これは何かが間違っていると思うのだ。
「過去の自分を否定して肯定した自分」が心の中に積み上がってしまった時、やがて心には無数のバインドが生まれるだろう。
「○○なよりは□□なほうがいい」「□□なよりは△△なほうがいい」そうやって自分を肯定するために自分の可能性をドンドン狭めていった果てには何が待っているのだろうか。
今の自分を肯定するために昔の自分をいちいち否定しなくても、ただたんに「今はこういう面でいいことがある。だから今の自分は上手くいっている」、そう考えながら生きた方が幸せなんじゃないだろうか。