跡地(暫定)

さてと、どうすっかなこのブログ

そういやここ最近ゲーム機買ってないな


本日発売されたXbox Oneをさっそく起動してみた。装いも新たになったダッシュボードや新機能をチェック - 4Gamer.net

 XBOXONEが発売されて家庭用ゲーム三国志はまた一歩次の段階に進んだ模様。果たして数年後に立っているのはどの企業か。セガは倒れたままなのか
 
 と世間の一部では盛り上げっているらしいですが、いまいち自分はピンと来ないんですよね。ここ数年ゲーム機買ってないからなのですが。
 今出てるゲーム機ってPCと比べて特別魅力がある感じじゃないのですよね。性能もゲーム用にだけPCを新しく作るよりは安いかも知れないけど、持ってるPCの性能上げてゲーム出来るようにしたほうがその他の用法にも使えることから効率が良さそうと言いますか。ゲームの本数も各社のハードが勢力争いしてる現状よりも巨大なPCゲームライブラリの方が強いといいますか(PSのゲームアーカイブスには結構やりたいゲーム有るんですけどね)。まあ何というか帯に短し襷に長しな値段と性能の物が多いイメージです。
 最大の部分は自分がテレビの前でゲームやらなくなって長い時間が経ってしまった事なんですよね。ここ数年ずっとPCのモニターに向かってゲームをやる癖がついてしまってます。その習慣が抜けなくてイマイチ「ゲーム機をテレビに繋いで遊んでる自分がイメージ」出来なくどうにも食指が伸びないのですよ

ヤマノススメセカンドシーズンを見終わってからでは富士登山は間に合わない?

 富士登山をテーマに話が進むヤマノススメセカンドシーズン(結構寄り道もしてますが)。いよいよ大詰めを迎えていざ富士山に登ろうって段階に入りました。その様子を見て聖地巡礼をしようとしてる人、ちょっと急いだほうがいいかも知れません。
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登山シーズン|登山基本情報|富士登山オフィシャルサイト

 富士山公式サイトによると富士登山が可能なのは7月の頭~9月の中旬まで。今年はだいたい9/14でお終いとなる模様。
 ヤマノススメセカンドシーズンの最終話を見る→テンション上がる→予定を立てる→いざ登山
 ってペースだと間に合わない可能性があります。ヤマノススメに影響されて富士山に登りたくなった人は旅行の準備だけでも早めに済ませておいた方がいいと思い
 あと山小屋を利用するなら不快指数の高さはお覚悟を。富士山自体は道のりが長めなだけで難易度は低く、翌日以降の筋肉痛や地表との温度差以外は特に警戒するところもないのですがね。若くない人・体力に自信のない人はストックを持っていくのをお忘れなく(土産屋で買える金剛棒は雰囲気があっていいのですが性能はストックより大分落ちます。お土産として買って帰り富士山よりも楽な山で使うのがオススメ)。筋肉痛への警戒を忘れると四話のあおいみたいになっちゃいますよ。


追記:9話で普通に登山シーズンに関するテロップ出てましたね。ま、まぁ放送前にギリギリ滑りこんだし俺の勝ちやな(何をもってやねん

魔女っこ姉妹のヨヨとネネ感想 ちょっとネタバレあり

 結構いい映画だった。スタッフとかよく分からないけどどことなくおジャ魔女+劇場版デジモン(またはサマーウォーズ)って感じ。デジタルと魔法は冒険映画と親和性が高いですね。独特の世界観を描けるので映像作品と相性抜群。展開はちょっと安直だったけどファミリー系の映画なんてまあこんなもんでしょう。

 この映画、個人的には主人公のキャラクター付けと作品の方向性のマッチングがかなり上手くいっていた印象です。原作がある作品なので、「主人公のキャラクター性を活かして作品を作ることが上手くいっていた」になるのでしょうかね。作品の題名はヨヨとネネですけど、実際の所はヨヨが主人公でネネはサブキャラクターです。このヨヨが少し変わったパーソナリティを持つキャラクターなんですよ。

実年齢は18歳。12年前の戦争で魔法が暴走してしまい12年間氷漬けになっていたため、見た目は当時の6歳のまま。

http://www.majocco.jp/character/ から引用
要するに「見かけは子供、頭脳は大人?」ってアレです。
 アニメキャラって外見に不釣合いなほど大人びていたり、逆に妙に子供っぽかったりするんですけど、ヨヨはそれに「氷漬けになっていたから」という理由がついてるんですよね。ヨヨは作品の序盤では幼女なのですが、途中コチラの世界(僕らが生きてる現実世界)にやってきて外見だけが大きくなります(凍りづけ魔法の影響下から外れて止まっていた時間分成長したって感じでしょうかね)。最初の幼女モードでは子供の外見に不釣合いな大人びたパーソナリティ、途中からの少女モードでは逆に外見よりも子どもじみたパーソナリティ。思春期の少年少女が持つ大人と子供の二面性が外見の変化によって際立っています。さらに一流の魔法使いとしての側面と、こちらの世界には不慣れでテレビに対して「どんな魔法を使ってるの?」と質問するような側面、この両面性がそれを更に際だたせます。徹底して大人でもなく子供でもない少女、少年少女アニメにおける主役の理想系とも言えます。
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敬語が似合わない幼女モード
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外見だけが成長した少女モード

 主人公のヨヨは死んだ人間と生きた人間の境界すら曖昧な魔法世界から、魔法なんて存在しないコチラの世界にやってきた事でコチラのルールに合わせられずに何度か困惑します。そんなヨヨの姿を通して、人が幼児的万能感を乗り越えていかなくてはいけない様子、同時に子供の頃の何でも出来る気持ちを失わずに自分を信じる事の大切さが描かれてました。不思議を扱う作品にとっては王道のテーマですね。このテーマはやっぱ強いです。アニメという夢から現実に帰らなくちゃいけない視聴者の立場ともリンクするのでこのテーマの物語はこちらもグイグイ入り込んでしまいます。消費者の共感を誘えるコンテンツは強い。これ定説。
 主人公は可愛いし世界観は面白おかしいし話はそれなりに纏まっていたしで楽しい映画でした。たまたま深夜にやってたから見たり録画するアニメ映画としてはこんくらいなら大満足って感じですかね。

途中から気づいたんだけど、主人公の声アイカツのいちごちゃんなんですよね。この映画はいちごちゃんが崖登る映画だったのです(違

ブログ投稿前に添削する事へのモチベーション

 昨日、ブログを投稿する前に添削するのを忘れてしまい、記事タイトルに誤字を残してしまっていた。具体的に言うと『ゲームのトロフィーや実績』と書こうとした部分が『ゲームのトロフィーや実績実績』になっていた。こういったミスは今後は減らしていきたいので、反省を込めて「ブログを投稿する前に添削をするモチベーションの維持」について考えてみたい。

そもそもどうして添削が必要なのか

 人間は間違える生き物だからである。
 誤字脱字のある文章が読みにくいからである。
 誤字脱字以上に大きな間違いに気づけることがあるからである。

 
 誤字脱字はほんの些細なミスで発生する。それこそ空気のように日常のすぐ側に存在していると言ってもいい。誤字は簡単に生まれる。キーのタッチミスや変換ミスであっという間に一つまた一つと誤字脱字のある文章が完成する。その誤字脱字に書いてすぐに気づけることもあるが、気づけない事も多い。どうしてそうなるのか、それは人間には誤字脱字があっても文章を読むことが出来るだけの能力があるからだと自分は思う。一時期『いりぎす の ケブンリッジ だがいく の けゅきんう の けっか』が話題になったが、人間の脳には多少の文章のバグを乗り越えられるファジーな認識能力が有る。そのファジーさが誤字脱字のある文章でも読めるようにしてしまい、結果として書いてる最中に誤字に気付く事を困難にさせている。誤字脱字は頭のなかで修正すればどうにかなる物も結構多いのだが、致命的な物も時折ある。それを回避するためにも誤字脱字は積極的に直していきたい。

 文章の添削を行う事で得られる効果は誤字脱字の排除だけではない。添削によって、文章やその中の論法が根本的におかしくないかを確認することも出来る。これは誤字脱字の排除よりも重要な意味を持つ。根本的に何かがおかしい文章は、見れば見るほど意味が分からない物であり、誤字脱字のように一瞬で意味を読み取れなくても考えていけば何となく言いたいことが分かってくるような物ではないからだ。サッと見ても意味が分からず、よく考えても意味が分からないのならば、それはもう文章として意味をなさないと言ってもいい。添削をすればそういった何かがおかしい文章を投稿前に握りつぶしてしまったり、修正して意味をなす文章にする事が出来る。

でもかったるいんだよな

 それなのにどうして自分は添削を怠ったのか?
 かったるいからである。

 添削 is かったるい。これはもう自分にとって確固たる事実だ。文章を勢いに任せてバーッと書いてサクッと投稿できることがブログの魅力だと自分は考えている。添削はそのブログの魅力をワンテンポ遅らせてしまう。「書き終わったぞ!」→「はい投稿!」というあの快感を引き伸ばして、「その前に読み直さないと」という非常にかったるい時間を過ごさせてくれる。しかし、そのかったるさに負けたくはない。どうにかしよう。

添削のモチベーション

 自分の文章を読み直して得られるものに目を向ければ添削は面白い(かも知れない)
 「自分で自分のブログ添削をする」ということは、「投稿前に自分のブログを読み直す」という事だ。それは「文章で整理された自分の考えを、客観的に見直す事が出来る良い機会である」とも言えるだろう。書くことで頭の中が整理できることはよく知られているし、それを読み直すことで整理された頭の中身を記憶しておくことが出来ることもまたよく知られている。ブログを書いてそれを添削することはそれを行う良い機会である。
 また、自分の文章を訂正していくことで『良い文章を書こうと努力した経験値』が蓄積されていていき、文章力が向上する可能性もある。
 添削はかったるいけど、そこに意味があると思えばモチベーションになる。日に10アクセスあるかどうかのはてなブロガーが「他人に良い文章を読んでもらおう」なんてモチベーションで添削をやっても上手くいかない。「自分にメリットがある」と思い込んで添削をやろう。早速、これを書き終わって自分の頭が少しは整理されたかどうかを添削を通して確認することにしよう。

PS:
添削の結果、

誤字脱字の修正が3箇所
文章自体の修正が5箇所
合計で 8箇所の修正箇所があった。
結構弄ったので「弄った結果何かがおかしくなっていないか」を今から確認してくる


PS2
再度の添削の結果、

誤字脱字と文章で1箇所ずつ直した。
どちらも最初に添削を行った時は問題無いと思った場所だったのだが、
もう一度読んでみたら直す必要が有ることに気づけた。
うむ、やはり添削は二回すべきだな。
二回以降はかったるいしいいや。

『ゲームのトロフィーや実績』は、『灰色の男たち』なのか?

やりこみとの出会い

 僕らの世代は子供の頃みんな一度はポケモン図鑑を完成させようとした事があった。あるものはポケモンブームが下火になってから火がついたせいで通信進化の相手をうまく見つけられず、あるものはバグを繰り返しすぎたせいでロムが壊れて諦め、あるものは途中で虚無感に襲われて投げ出した。そうして多くのものがポケモン図鑑を完成させられずに終わったが、それでも僕らは一度はポケモン図鑑の完成を目指していた。
 ポケモン図鑑を完成させようとする動機が「ポケモン全部集めようとしたら楽しそうだ」だったのか、「図鑑を埋めた後のイベントを見てみたい」だったのか、「図鑑を埋めて自慢したい」だったのか、「ゲームのすべての要素を味わい尽くさなくちゃ勿体無い」だったのか、その理由を今となっては思い出せない。
 今思えば、あれが僕とやりこみとの出会いだった。
 そして僕は挫折した側だった。
 そして今でも挫折し続けている。

大部分のゲームに可視化されたやりこみがある時代

 今世の中にある多くのゲームには「実績」や「トロフィー」というやりこみ要素が付加されている。その起源がどこにあるのかは自分も覚えていない。ゲーム内に実績の要素を持つゲームがチラホラと出てきて、そして気づいたらゲームのハードやアカウント自体がやり込み実績を記録し始めていた。自分の認識はそれぐらいアヤフヤだ。それぐらいアヤフヤにいつの間にか多くのゲームに実績がついてくるようになっていた。
 実績とはすなわちやり込み要素だ。「やりこみってのはなぁ、もっと深くて高いものなんだよ!」と熱弁を振るう人は居るかもしれないが、自分のようなヌルいゲーマーにとっては実績の解除でも十分なやり込み要素になる。
 人によって『やりこみ』の定義は違うだろうが、自分にとってのやりこみは「エンディングを見るなどして十分そのゲームを味わい尽くしたと思っているのに、とある目標へ向けて黙々と退屈な作業をし続けてしまう状況」である。定義はやはり人によって違うだろうけど(大事なことなのでもう一度言った)

 そして今、自分の定義を当てはめると世の中はやり込み要素のあるゲームだらけという事になる。そしてそれらは可視化され、時に「ただいま◯◯%まで実績解除」などと表示されてすら居る。

「奴ら」は灰色の男たちなのか

 ゲームの実績は素晴らしい物である。なぜなら実績はプレイヤーにそのゲームをとことんやっていく際のマイルストーンとなるのだから。時にネタバレをかましもするが、「あの敵が実は倒せるのか!?」「敵に一度も見つからずにクリアする事も可能なんだな」とプレイヤーに目指すべき目標を次々に気づかせてくれる。どうゲームと付き合えばいいか、どこまで深く突き詰められるのか、それは実績が教えてくれる。実績はそのゲームをひたすらやり続けようとする人間にとって良き友人になってくれる。
 
 ゲームの実績は憎たらしいものである。なぜなら実績はプレイヤーがそのゲームをどこまで浅くしかプレイしていないかを白日の下に晒すのだから。今まで積み上げた物を教えてはくれるが、「あのアイテムがまだ全部集まっていない」「あの難易度をクリアしなければ『このゲームをプレイした』なんて堂々と言えないのではないだろうか?」とプレイ量・密度の足りなさを突きつけてくれる。いつまでそのゲームと付き合わなければ、どこまで無茶な要求をこなさなければゲーム機やアカウントに「実績解除率95%」といった烙印が残り続けるのかを淡々と表記し続けてくる。

 完璧主義に陥ったゲーマーにとって実績ほどの時間泥棒はない。「プレイしたいから」ではなく「実績を埋めたいから」とつまらなそうに、時に手探りに、時に攻略サイトを見ながらマップの隅々まで探索を続けるのはもはや作業以外の何物でもない。
 なぜそんな作業を続けるのかと問われた時、僕らは「そこに実績があるから」と言うのだ。それが面白いのかと尋ねられれば「でもやらなくちゃいけない気がするから」と答えるのだ。それが果たしてゲームをプレイしてる時間の人間の感情として正しいのか。自分には分からない。自分はまだその答えを出せるほどゲームと向き合ってきていない。しかし今の自分が自分なりの答えをだすのなら、それはきっと「時間の無駄」になるのだろう。盗まれた時間はどこに消えるのか、なぜ積極的に時間を盗ませてしまうのか、答えはまた分からない。

やり込みはゲームの本質の一つである、分かってはいるが

 やり込む事はある意味ゲームの一つの本質なのは自分だってわかっている。やり込みが不可視だった時代、ハイスコアや連勝数ぐらいでしか語る事が出来なかった時代からやり込むことはゲームの一つの本質だった。ひたすらやり込んでやり込んで最初の頃の自分が見たら「ありえねー」と思えるプレイが出来るようになるまでプレイする。その繰り返しと積み重ねこそがゲームの一つの本質である事は自分もよくわかっている。
 だけどゲームは増えすぎた。そして自分にとってゲームは人生の大部分を占めるにたる要素ではなくなった。生きるためのお金稼ぎ、将来の不安、アニメや漫画といった他の娯楽、etc人生の意味は細切れにされ、不揃いなパイはどれも「その一つのために他の多くを犠牲にする」という行為を取るに足るものではなくなってしまった。

 ゲームだけやっていられないのだ。ゲーム以外もやりたいのだ。やらなくてはいけないし、やっておきたいのだ。そしてゲームも一つのゲームだけでなく、多くのゲームをやりたいのだ。そんな自分にとって実績は多くの場合「時間を盗まれることでやり切ったという安息を得るか、次のゲームにさっさと行くために中途半端な気持ちを胸に残すか、その選択を迫ってくる存在」になってしまう。これは自分が単に実績という物と上手く付き合えない性格をしているからというだけなのだろう。人によって「目標」となるものが、自分にとっては「枷」になっているのだ。実績はきっと悪くない。悪いのは自分との相性だ。

最近のアイカツについて ~世代交代がある作品・終わる作品~

 最近アイカツのアニメが世代交代の準備を着々と進めている。アイカツのアニメは作品内の時間が容赦なく進む。主人公星宮いちごちゃん達にはいつの間にか後輩ができ、中等部を卒業して高等部に行き、遂にはいちごちゃんの後継者となるような大空あかりちゃんというキャラまで出てきた。新シリーズではこの大空あかりちゃんが主人公となる。完全な世代交代である。キャラの方向性も星宮いちごちゃんが超をつけても問題がないほどの天才であったのに対して、大空あかりちゃんは超をつけても問題ないレベルの凡才である。入学して一年ほどでクラスのトップに踊りでた星宮いちごちゃん、半年たっても補修を受けるような大空あかりちゃん。「天才の影を追う天才」の物語であったアイカツに対して、まだ始まっても居ない第3シーズンは今の所「天才の影を追う凡才」の物語だ。

 これに対して同じアイドルアニメであるラブライブは主人公たちの卒業によって物語が終わる。二期じたいが「μ'sの終わり」をテーマにして作られていた。ラブライブ優勝もハッピーエンドであると同時に「μ'sがゴールしてしまう」ことの象徴みたいな扱いだった。世代交代も作品の中で「μ'sは主人公たちにしか出来ないからμ'sはこの年で終わり」と否定されていた。ラブライブは終わる物語だ。何かアキレスと亀みたいに時間の流れがゆっくりになっていつまでも延命しそうな気もするけど。


 ラブライブアイカツには
・「ヲタク向け」⇔「女児向け」
・「アマチュアアイドル」⇔「プロアイドル」
・「他校がライバル」⇔「全員が仲間でありライバル」
・「男キャラが全然出てこない」⇔「ジョニー先生やらいち君やその他もろもろ」
・「全員でμ's」⇔「スターアニスアイカツ8もすぐに解散」
といった多くの違いがあるけど、最も大きいところは二期以降のテーマにおいて世代交代をどう扱ったかだと思う。それを可能にしたのは、全員が揃ってμ'sなのか、一人一人がアイドルなのかという部分なんだろうけどね。
 自分はこの世代交代こそがアイカツが現実に足をつけている作品であることの象徴だと思う。有名なアイドルが表舞台を降りたあとでも新しいアイドル達の物語が続くというのは、まさに現実のアイドル世界そのものだ。それはある意味で残酷ともいえる。それを描くという事はいちごちゃん達が少しずつ忘れられていく世界を描くことに他ならないのだから。今まで二年間その姿を追ってきた身としては少し心が痛む。
 逆に主人公たちがいなくなった後で世界が閉じてしまうのは、そこが主人公たちのために作られた閉じられた世界であったこととニアリーである。そしてラブライブはそういう作品であった。それで何の問題もないと僕は思う。μ'sの成長を通して甘い夢を見れる世界、それがラブライブという作品であった。それで視聴者は満足する。むしろグダグダとその後の話をされるよりも、それ以降は個々人が二次創作なりで妄想すればいいことだ。
 正直こう考えるのはまだ性急な気もするのでこっからグチグチ考えるのはアイカツ3期・4期が終わってからにする。キラ・ヤマトシン・アスカキラ・ヤマトみたいにならないとも限らないしね。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 感想

 個人的には新劇場版だと破がダントツに面白いと感じます。新規展開は程よく多いですし、戦闘シーンも目新しさと懐かしさを兼ね備えた映像がガンガン流れるので見ていて全く飽きないんですよね。
 自分の勝手なイメージだと、入門用の序、戦闘の破、滅茶苦茶のQ、Q以上に滅茶苦茶だと思われる||という認識。自分やっぱ男の子なんでね、ロボット物にはバトルを期待しちゃうんですよ。そしてケチンボなんで劇場版には新規シーンを期待してしまうんですよ。つうわけで新劇場版だと破が一番好きです。
 

多脚型いいよね

 ヱヴァンゲリヲン破はいい意味で印象に残るシーン沢山ありますが、その中で自分が一番好きなシーンは開始五分ぐらいの仮設5号機の戦闘です。
 ロボットアニメで多脚は少しマニックなんですが、あの思いっきり機械って感じのフォルムから地味に人気があると思います。しかし、エヴァに多脚型は出ないと自分は思っていました。だって人造人間ですからね。まさか仮説とはいえ脚が二本より多くあるエヴァが出てくるなんて思っていませんでしたよ。
 武器もランス・マニピュレーター・自爆と今までのエヴァとは一味違う。敵もそれまでの使徒とは違う骨骨です。パイロットも新キャラなら展開も新しい。序を見終わった時の感想が「何だかんだ大筋は一緒だったな」なのに大して、破は見始まった瞬間から「今までとは全然違うぞ」なんですよ。
 この違い、当時映画館で見た瞬間に「あー、これはウマイわ」と思いました。序を見終わった時の物足りなさがそのまま破でのカタルシスに繋がる。このギミックのおかげで破にバラ撒かれた新規シーンが本当に楽しめました。Qはやりすぎに思いましたけど。


 シンジくんがアニメでシンジさんになった事も凄い注目ポイントではああります。スパロボやSSで散々登場していたイケメンなシンジくんが遂にアニメで銀幕で。このシンジくん豹変はストーリー的に破でもっとも重要な部分でしょう。シンジくんやレイがもしもアニメ版よりも積極的に人と関わっていたら何が起きていたか、彼らがアニメ版よりも速いペースで成長したらどうなるのか、そのIFを描くことこそが破以降の劇場版のテーマだと思います。

リボルテックヤマグチ No.69 仮設5号機

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