跡地(暫定)

さてと、どうすっかなこのブログ

無伴奏ソナタ(オースン・スコット・カード) 感想

 ネタがないのにブログを毎日更新しようとした結果、内容が感想に偏ってきた。まあどっちにしろ取り留めのない事を書くブログだし問題ないね。

 エンダーのゲームで有名な人の短篇集、彼の代表作であるエンダーのゲームの短編バージョンが載ってる。他人の夢日記を呼んでいるようなどこかとりとめのない物語が多いが、そこがどこか宙に浮いた読後感を醸し出してて中々良かった。SF短篇集だけど星新一と比べると肉付けがそこそこ厚い。アシモフの短編と比べてもほんの数ミリほどこっちのがぶ厚いぐらい。その中で気にいった短編の感想をば

エンダーのゲーム

 映画にもなったSF小説の初期バージョン。65ページぐらいしかないのでサッと読み終わる。天才主人公が戦争ゲーム(模擬訓練)に画期的な作戦を持ち込んで大活躍、そのまま訓練で連戦連勝してたけど段々難易度が上がっていきいよいよ無理ゲーやろと思いながらも頑張ったら地球を救えちゃったぜ、なストーリーが最小限の肉付けで楽しめる。ラノベとかでもよくある王道の展開。短篇集の出だしがシンプルな作品なのは読みやすく嬉しい。

王の食肉

 残酷宇宙人の手先になっていた男が、その残酷宇宙人が宇宙帝国から派遣された人達の手によって倒された後の世界でしっぺ返しを受けちゃうのか受けちゃわないのかってお話。オチがトンチ入ってて落語みたいだなと思った。グロ要素が強くて色々と悪趣味。

死すべき神々

 ベニクラゲのような宇宙人達によって人類が「死すべき運命を定められ、その中で生を全うしようとする姿が何か神々しいから」という理由で崇められる話。人類が寿命や情報伝達の部分で不完全だからこそ、後世に何かを残そうと芸術や学問を発展させていきそこが凄いんだとか何とか。哲学的なような、単なる思いつきに単を発した小話にすぎないような、この短篇集の作品はどれもそんな読後感だけどこれは特にそうだった。

無伴奏ソナタ

 ディスティニープランやシビュラシステムのような物によって人々の生き方が決められる完全な世界の物語。主人公はその世界で幸せに生きていたのに1人のキチガイ犯罪者の手によって運命を狂わされ、何度となく路頭に迷うことになる。融通の効かないシステム、身勝手な登場人物、何度逆境に落とされてもその中で自分の本当の生き方を突き進む主人公。短い物語だけど何度も場面が転換して、作中の幸不幸の波もグングン揺れ動くのが面白かった。創作に係る人間の持つエネルギーや創作の喜びについて描かれており、作者の主人公への感情移入度の高さを感じた。「イニシャルがC・Hだからアイツのアダ名はシュガー。CとHで砂糖みたいだろ」という理系ジョークの面白いのかつまらないのか分からない感じもナイス


 全体的に体制に対して文句を付けているような作品が多かった印象。頭の硬いお上連中への反抗精神、SFとはロックである、って感じ。感想は書きませんでしたが冷戦ネタも一作ありましたし。

ブログと日記は両立できる。ブログとSNSはどうなんだろう

 アカウントは明かさないけど自分はツイッターをやっている。ツイッターをやっていると時折「これブログのネタに出来るな」と思うし、ブログを書いてると「これツイッターで十分だな」と思う。正直どっちか片方だけあればどうにかなる気もする。「元々SNSミニブログなんだから当然」そういう意見もあるだろうし僕もそれには大いに納得する。
 140文字の制限なんてツイートの最後に「つづく」とか「1/3」「2/3」「3/3」とでもつければどうにでもなる。それならブログなんて書く必要がない。たまにそう思う。だけど纏めて一度に何かを話そうと思うときはブログの方がしっくりくる。140文字の世界で1000文字の話を次々投げつけるのはやはり何かがズレている。140文字ずつ投稿していき少しずつ変化していくのならそれはツイッター流だが、最初に2000文字分の文章を完成させておいてそれを15個に分割するのはツイッター流じゃない。「ブログでやれ」だ。そういった『長く丁寧に書くことで意味を持つ文章』を量産できる人にとって、ブログとツイッターは両方やる意味がある。だけど、僕のような人間はそんなのたまにしか書かない。週に1回や2回なら流儀を忘れたツイートをしたってフォロワーは離れていかないだろうし、そもそも流儀なんて最初からなくて全部僕の「こうあらねば」という思い込みなのかもしれない。
 ブログとSNSは両立するのだろうか、僕自身にとってすらその答えはまだ良くわからない。そもそもなんでブログ始めたのかもよく分からないけど、それはツイッターも一緒だ。


 対して日記とブログ(SNS)は両立する。ネットに書いた文章は世界に羽ばたいていく。巨大なWANの大海を通じてネット回線の通じる範囲にいる全ての人間が『僕のアカウント』が昨日何を言ったのかを確認しようと思えば出来る。しがない一個人のアカウントでも何かの間違いで炎上してしまえば大衆の目にさらされる。人には知られたくないことが沢山ある。僕はアカウントの中の人が何て名前なのかも知られたくない。もしもどこかでやった自己紹介のあとで「田中一郎(偽名)君?もしかしてあのアカウントの中の人かい?」なんて聞かれた日には心がポッキリ折れてしまうだろう。僕の本名とアカウントの関係を知っているのは、一部の知り合いやサーバーだけで十分だ。
 そして、サーバーや知り合いにも知られたくないことだって沢山ある。そういった物事を書き留めたい日が結構ある。『人に言いたくない事ほど言葉を使って頭のなかを整理したくなる』という仮説を今思いついたぐらいだ。そういった誰にも知られたくない事を整理するのに日記は役に立つ。自分だけが読む自分のための文章。未来の自分すら読まずに今の自分がただ書きなぐるだけの文章。そういったモノを生産できる場所として日記は確固たる地位を持っている。設定画面でミスクリックしたらネット中にばら撒かれてしまうかも知れない非公開ブログ何かとは比べ物にならない信頼性がある。
 日記とブログは両立する。多分ネットにどれだけ多くのサービスが生まれても、ネットに公開され無い形での雑記はその地位を守り続けることが出来る。王様の耳はロバの耳と吐き出せる場所が必要な私のような人種がいなくならない限り。

ファンタスティック・フォー:銀河の危機 感想

 ゴム人間や人間火炎放射器といった小学生が見たら「ワンピースのパクリじゃん!」と言いそうな主人公たちが活躍する映画第二弾。前作の内容を忘れてても普通に見れてしまう作りなのは実にアメコミ映画(ドクター・ドゥームだけは前作の内容忘れてるとちょっと混乱する)。
 主人公たちが日常的に能力を使ってくれるので戦闘シーン以外でもそこまで退屈しないのがありがたかった。戦闘シーン自体はちょっと少なめだった気がする。バトルではメラメラ人間ヒューマントーチがやたらと活躍してた。ゴムゴムのリーダーとスケスケのヒロインは結婚式を通しての「地球の平和と幸せな人生の両立」ってストーリーを描くのがメインの活躍。岩男は……作品の良心として頑張ってたし大活躍だな、うん。

 この映画を見て個人的に印象に残ったのは「シルバーサーファーってFF(ファンタスティックフォー)のキャラだったのか」って所。シルバーサーファーがアメコミヒーローだって事すら自分は知りませんでした。ならどうしてシルバーサーファーなんて知ってるのか?それは彼が主人公のファミコンゲームが『音楽だけはやたらとよく出来た昔のゲーム』として一部で有名だからです。ペプシマンがサーフボードに乗って戦うファミコン時代のバカゲー、しかしそのBGMは一級品という珍妙さが謎の人気を呼んでいるのです。





それと海外映画特有の謎日本。船に右横書きで『ますよ』。ますよ……。一時期の日本人が中国人が「ないアルよ」とか言ってると思い込んでいたのに近い感性ですね。
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ラストで主人公たちが「お忍びで結婚式を上げるために日本に来る」シーン、日本をド田舎扱いしてるこの時点ですでになんかおかしい。東洋の隠れ里みたいな感覚ですかね。
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その結婚式会場から飛び立つファンタスティックフォーのマシンを見送る日本人達、なんかみんな浴衣来てます。こんなに浴衣率が高い日本人なんていまどき花火会場にもいやせんぜ?結婚式見学者に条件付けられた服装にしたって浴衣はちょっとおかしいです。このどの時代にも存在しなそうな日本人達。アメコミが持ってる日本像はやっぱすげーですね。ヤクザがサムライでニンジャが飛び交う不思議の日本はこういった感性によって支えられているのです。

あやかしがたり(渡航) 感想

 図書館で見つけたので何となく手にとってみました。図書館は凄いですね。数年ぐらい待てば大体の本が手に入る。ブックオフ以上に作家の敵で僕らの仲間(とも)ですね。
 イラストの絵柄、舞台・キャラクター設定、あらゆる要素が今時のラノベとは違う印象だった。ガガガ文庫が出してなかったら「2、30年前の作品かな?」と思うこと請け合い。だが、それがいい。妖怪が出てきて日本刀で戦うなら舞台は江戸ぐらいの方が雰囲気出ますしね。時代小説とラノベの中間ぐらいの感じ。作者も「時代劇ライトノベル」とジャンル分けしてますし。山田風太郎が生まれてくるのが50年ぐらい遅かったら甲賀忍法帖とかも時代劇ラノベになっていたのかしら。

 あとがきの

そもそも時代劇を書くことにしたのは、ぼくがあまりにもつまらない人生を送ってきたからです。SFや推理モノを書くには知識が足りず。学園モノを書くには友達が足りず、ラブコメを書くには圧倒的に経験が足りません。訂正。ラブコメに関して経験がないわけではないです。むしろ、豊富です。苦い経験が。だから、時代劇なのです。

という部分から俺ガイルに繋がる何かを感じたのが印象的でした。フラグ立ってるって奴ですよコレ。

僕がソシャゲに飽きたわけ・辞めたわけ 10の理由とその説明

 既に世界中で10億人ぐらいが同じような結論に辿り着いただろうし、100万人がブログやツイッターに同じ事書いてるだろうけど自分も書いてみる。

結論から言うと

1「同じことの繰り返しでしかないから」
2「データが積み上がるだけでスキルもお金も積み上がらないから」
3「データが積み上がるに連れデータが積み上がる刺激が薄れていくから」
4「ゴールがないがゆえにどこまでも引き伸ばしが続くから」
5「ゲーム内容は普通のゲームの方が面白いから」
6「ゲーム内の繋がりも所詮は利害の一致でしかないから」
7「可愛いキャラの画像が見たいならpixivでも行ったほうが手っ取り早いから」
8「スタミナやデイリーに縛られて可処分時間が減るから」
9「スタミナやデイリーが生む強迫観念がストレスになるから」
10「とにかく時間やお金の面でコスパが悪いから」

この10個に自分がソシャゲをやらない理由は収束する。

半分以上がクッキーババァことCookie Clickerをプレイした事がある人なら嫌でも分かってるだろうけど、折角だし一つずつ説明していって自分の頭を整理してみる。

1「同じことの繰り返しでしかないから」

 同じことを毎日毎日ヘビロテしたら嫌でも飽きてしまう。焼肉食べ放題90分はひたすら肉ばっか食っていても幸せだけど、年中ぶっ通しで焼き肉を食うのは肉食獣でもなければお断りだろう。
 ソシャゲはスタミナの関係で毎日やり続ける事を強いられがちになる。そのせいで「少し飽きてきたのにプレイする」という状態に陥ってしまいがちで、結果として物凄いスピードで飽きが加速していき遂には「完全にソシャゲに飽きてしまう」。

2「データが積み上がるだけでスキルもお金も積み上がらないから」

 ソシャゲをプレイしていると最初のうちはスリーマッチパズルだったり効率プレイだったりの知識やテクニックが磨かれていく。
 しかしそれは最初のうちだけですぐにデータだけが積み上がるようになっていく。そしてそのデータはあくまで1ゲームのステータスに過ぎず、現実でのステータスには全くならないし他のゲームに持っていく事も出来やしない。

3「データが積み上がるに連れデータが積み上げる刺激が薄れていくから」

 ソシャゲを始めたばかりの頃はパーティーを強化していく楽しみがある。しかし段々とカードやキャラの成長速度は落ちていきやがて誤差のようなものになっていく。ほんの僅かなステータスの強化という報酬のために大量の作業をするのは実に刺激に欠けるものだ。
 インフレがすごい勢いで加速していくソシャゲもあるが、それをやられると今度は愛着のあったキャラとの別れなどが発生していき冷めてしまう。

4「ゴールがないがゆえにどこまでも引き伸ばしが続くから」

 ソシャゲにはゴールがない。人気のないソシャゲがサービスを終了することはあるが、人気のあるソシャゲはどこまでも延命されていく。
 延命が続くに連れて『3』で述べたデータが積み上げることへの刺激の薄れは確実に悪化していく。どこまでも遠ざかるゴールによる効力感の低下も見逃せない。

5「ゲーム内容は普通のゲームの方が面白いから」

 最初のうちはシンプルなシステムからくる面白さがあるかも知れない。しかしソシャゲのゲーム性はどれもシンプルすぎる。他のゲームが手を変え品を変えプレイヤーを楽しませようとする度合いと比べるとソシャゲは奥行きが無さ過ぎる。結果として楽しめるのは最初のうちだけになる。

6「ゲーム内の繋がりも所詮は利害の一致でしかないから」

 ソシャゲにおけるフレンドやギルドの繋がりはごくごく一部を除いて「プレイヤースキル」や「人間性」ではなく、「持ってるカードの質」や「スタミナの消化量」によって維持される。使えなくなった仲間はいつの間にかポイされる冷たい関係ばかりがそこにある。

7「可愛いキャラの画像が見たいならpixivでも行ったほうが手っ取り早いから」

 多くのソシャゲがキャラの可愛さや格好良さを一つの売りにしている。しかし一枚のカードを手に入れるのにはそれなりの資金や時間がかかる。pixivなどのサイトに行ったり好きな作家の漫画を読めばずっと効率よく可愛い絵などを見ることが出来る。

8「スタミナやデイリーに縛られて可処分時間が減るから」

 ソシャゲ最大の問題がこれである。とにかくソシャゲは時間を食われる。電車でスマホを取り出している時間にニュースや本でも読んでいれば、家でブラウザゲーに張り付いている時間で何が出来ただろうか。今日はソシャゲを控えようと思っても「スタミナ(デイリー)が勿体無い」という感覚が本来やりたくないゲームに自分を向かわせる。

9「スタミナやデイリーが生む強迫観念がストレスになるから」

 「スタミナ(デイリー)が勿体無い」「次のイベントまでに戦力を整えなきゃ」そういった考えが心にあると「やりたくないゲームをやる」or「ゲームに遅れを出す」という二者択一の間で揺れ動いてしまう。どちらを選んでもストレスが生まれるのがこの選択の恐ろしい所だ。

10「とにかく時間やお金の面でコスパが悪いから」

 「ソシャゲをやる時間でもっと面白いゲームが出来る」「ソシャゲに使う金でそのもっと面白いゲームが買える」結局の所、これが自分がソシャゲを辞めた大きな理由だ。同じ「ゲームをやって楽しい時間を過ごす」ならソシャゲよりも「短い時間でより大きく楽しめて、やたらと金を要求しないゲーム」をやった方がQOL(クオリティ・オブ・ライフ)が高まるのは火を見るより明らかだ。



それでも飽きるまではソシャゲは楽しかった

 10個も理由をあげてソシャゲをこき下ろしたけど、ソシャゲが完全にクソだと僕は思っていない。
 最初の内、確かにソシャゲは楽しかった。シンプルにステータスが積み上がっていく事はRPGなどの本質てな快感があった。育て上げたキャラクターが敵を蹂躙していくのには勝利の優越感があった。頑張ってイベントボスを倒し、手に入れたキャラクターには愛着があった。愛着のあるキャラクターを育て上げ、そのキャラクターが次のボスを倒していく雪だるま式の成長にはある種の物語性を感じた。
 しかしそれも最初のうちだけだった。やがて全ては色あせていった。微々たる強さの向上を求めてのやり飽きた作業、時には全く強さに影響がないようなただ愛着を証明するためだけの作業があった。余りにも薄っすらとした快感のために費やされる長い時間。無制限に遠ざかるエンディング、果てしなくやってくるスタミナをひたすら消費し続ける日々、自分自身に日々もたらされる86400秒のスタミナがゲームサーバーからやってくるスタミナにすり潰される毎日。積み上がる虚無感。虚無感と勿体無い気持ちの葛藤、やがてプレイすることもプレイしないこともストレスに変わっていく。ゲームとは、なんのためにするものだったのか。
 まあ結局は僕が飽きっぽい性格をしていて、そのくせ「コストパフォーマンス」だの「QOL」だのを考えてしまうような屁理屈野郎だっただけなのかも知れない。

I NEED CHAGE


MONKEY MAJIK × 吉田兄弟 -CHANGE- - YouTube


TimeStack - 時間管理アプリ - Google Play の Android アプリ
 自己管理能力を高めようと思って行動管理アプリっていうの使ってみたんですよ。自分が1日をどう使ってるのかなって少しずつ入力していけるやつ。

こんな感じに(画面は上のアプリのサンプル画像。自分のアプリ記録は恥ずかしくて載せたくない)。
 それで一週間ぐらい自分の行動を記録していって、どこにどう時間使ってるのかの統計を取ってみたら……。うーん、想像してたよりも酷い。休みの日は睡眠時間で大分消費されてるし、平日も家帰ってからは映画やアニメ見てるか、そうでない時はずっとネットやってたりゲームしてたり。勉強どころか読書も大分疎かになってる状態でした。小学生かって感じの生活。睡眠時間を犠牲にしてゲームしてない分中学生の頃よりはマシでしたが。
 とくにネットの見過ぎがよくないですね。あとゲームのやりすぎ。お菓子が食べたら無くなっちゃうように、時間も使えば無くなってしまいます。今日ダラダラ過ごした分を後で取り戻そうとするのはやっぱ大変ですからね。自分がそうしたくてダラダラ過ごしてるのならそういう人生として問題ないのですが、ネットやパソコンの魔力に引きずられて自分がやろうとしてるよりも長くネットにのめり込んでるみたいです。その間何やってのかもよく覚えていない。2ちゃんねるや増田でもずーっと眺めてたのかな。これからはネットつないでる時はタイマーアプリでも回すことにして、1日にネットやる時間を少しずつ意識的に短くしていきたい所。

エヴァQ感想

 5作品に渡った日テレのエヴァ祭りも遂にゴール。ラストは今のところ新劇場版最大の問題作であるエヴァQ。多分次の映画の方がヤバイだろうし、それ以上に旧エヴァの一作目も滅茶苦茶ヤバイんですが、この映画も十分ヤバイです。ヤバイヤバイしか言えなくなるぐらいヤバイです。
 

「訳が分からない」がテーマな映画(多分)



誰やねんアンタら

何があったねん

 この映画、大分訳がわからないです。主人公であるシンジくんは前回のラストから14年間封印されていた設定。映画の大部分がそのシンジ君の視点で進むため、見ている側は14年間にあった過程をすっ飛ばして結果だけを見せられる事になります。ニアサードインパクトの影響によって崩壊した世界、元ネルフメンバーが沢山いる(謎のメンバーもたくさんいる)ヴィレという組織、それと対立するネルフ、コード4Cだの4Bだの呼ばれてる訳の分からない怪物、正直言ってポカーンです。映画館で見てるとき頭の整理が少し追いつきませんでした。シンジくんがラストで「カヲル君が何を言ってるのかわからないよ!」と叫んでいるシーンで多くの人は「全くだな」と思ったことでしょう。この訳の分からなさこそが恐らくこの映画の「持ち味」・「売り」です。

 この映画ではエヴァパイロットの年齢が「エヴァの呪縛」という物によって止まっています。そしてそれが最も顕著なのはシンジ君。他のパイロットが肉体年齢のみが止まっているのに対して、封印されていたシンジ君は精神年齢も体感時間も全てが昔のままです。周りのエヴァパイロットが14年間で変化していく中で変わることがなかったシンジ君、アスカに「あれじゃバカじゃなくてガキね」と言われたり、マリに「ちょっとは世間を知りな」とか言われちゃってます。散々ですね。監督が旧劇場版で観客席の映像を流した庵野秀明であることから考えるに、「いつまでも訳がわからないアニメを有難がってるガキのままお前ら」っていう皮肉がシンジ君の扱いに込められているのでしょう。そして、訳の分からなさこそがエヴァの売りだとお前らが言うなら極限まで意味不明にしてやると、きっとそんな思いが込められ映画はこんなことに。

 訳が分からないなりに色々考察することも出来るし調べることも出来るんでしょうが、今必死に考えても次の映画でひっくり返されそうな気がしてもどうにもやる気が……。

ホモホモしさがすごかった



禍々しさのある場面が多いエヴァQで異彩を放つ清涼感溢れるピアノシーン

 訳の分からなさと同じぐらいこの映画で重要な要素がカヲルくんのホモホモしさ。ピアノセッション、寝転んで一緒に星を見る、チョーカー外し、その他様々な場面で清々しいほどにホモホモしいです。普通のキャラじゃ出せない謎のホモっぽさ(色気)があります。映画館で見てる時にカヲルくんが出てくると近くに居た女性が凄い楽しそうにしてるのが印象的でした。

 ホモ展開と意味不明さというある意味でエヴァにおいて人気のある要素が詰まっていた作品。お色気・ロボット・学園物という部分にスポットを当てた序・破とは一線を画する作り。ある意味でQの方がそれまでの二作よりもずっとずっとエヴァらしいっちゃエヴァらしいのですよね。やり過ぎな感じで自分は振り落とされてしまいましたが、ずっとエヴァを追い続けてきた生粋のエヴァヲタクなら凄い楽しめたのかも知れません。

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そういえば次の劇場版の名前が変更になっていましたね。どう読めばいいのかよく分からなかったので有り難いっちゃ有難いんですが、変更されたのが名前だけだったのかどうかを考えると実に不安になる。ただでさえどうやって次の映画でケリをツケるんだろうって状態ですからね……。題名的に「次は3.0+2.0ね」とかありそうです。