跡地(暫定)

さてと、どうすっかなこのブログ

ゲームの寿命≒人間の寿命を消費した量≒他のゲームを含めそれ以外の事をするチャンスが失われた量

 自分は昔時間のかかるゲームが好きだった。他のプレイヤーやCPUを相手にいつまでも遊べるゲームや、クリアまでに何十時間もかかってクリア後もやりこみ要素があるRPGの財布への優しが本当に好きだった。でも今は時間がかからないゲームを好んでいる。ゲームのシステム的なアイディアを10時間程度で思う存分味わえるゲームが理想だ。やりこみ要素なんて達成感の単位時間あたりのパフォーマンスを下げる贅肉程度に感じる日もある。財布が裕福になった分、時間が貧しくなった。ただそれだけの事なのかも知れないけど、自分としては大きな変化だ。

 プレイ時間がやたらかかるゲームだと代表的なのはモンハン、ポケモン、各種ネトゲあたりだろうか。どれも人気の作品だが、その人気とプレイ時間の多さはきっと深い関係にある。たとえばモンハンが20時間プレイしたらもうやる事がなくなるようなゲームだったなら今ほど流行っていなかっただろう。何故ならモンハンの最大の魅力である『複数プレイヤーとの協力プレイ』が、昨日まで一緒にプレイしてた仲間達の「もうやる事ないし飽きたわ」の一言で簡単に失われてしまうのだから。
 ネットゲームでもこれは顕著だ。コンテンツをやりきってする事がなくなったプレイヤー達は他の作品に移ってしまう。そして移っていくプレイヤーの中にはフレンドを誘って集団で移民する者もいる。一度始まったそれはコンテンツの果てにたどり着いていないプレイヤーにまで次々と波及しうる。そうなるのを防ぐために多くのネットゲームは引き伸ばしを行う。オフラインゲームの100倍時間がかかる経験値テーブルを作り、人生を捨ててようやく手に入るレアアイテムをボスにドロップさせる。こうしてオフラインゲームでは時に一日でたどり着ける「完全制覇」のカタルシスを味わうのに必要な労力は、ネットゲームにはおいては尋常でないものになる。
 
 こうして引き伸ばされまくったゲームをやる体力が今の自分にはない。そう考えながら今までの人生を振り返ってみるとふとある事に気づく。『ゲームの寿命は、そのゲームによって消費されたプレイヤーの寿命そのものなのだ』と。寿命の長いゲームは長い時間人間の遊び相手になってくれる。しかしそれは同時に、長い時間人間がゲームの遊び相手になってやる必要があるという事だ。「このゲームの終わりを見届けたい」、もしもプレイ時間が長いゲームに対してその思いを抱いてしまった時、プレイヤーの胸中で深い葛藤が始まる。何故ならそのゲームの終わりを見届けるために歩く道のりが伸びれば伸びるほどに、自分が人生で歩むそれ以外の道のりが短くなっていくのだから。
 
 巷でよく言われる問答に「ゲームなんて時間の無駄 → 楽しい時間を過ごせるならいいじゃん」というのがある、みんな一度はこの話を見聞きしたものだろう。確かに振り返ってみればゲームなんて基本的に『楽しかった』ぐらいしか残らない。だけど楽しかった記憶が残るならそれは良いことだ。人生に確固たる目標もないくせに、楽しいだけで何も残らないことを無価値と言いつづけも、どうせ最後は『ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間が釣り人に説教する寓話』の様なオチがつくだけだ。
 逆を言えば「楽しく無くなってきたならそのゲームは潮時」という事になる。それ以上そのゲームに寿命を割いていてもしょうがない。ゲームは他にも沢山あるし、面白おかしく時を過ごせる手段は本当にたくさんある。ふと振り返り有意義な時間を過ごしたと自己満足にひたれるように資格勉強やトレーニングなんかをしてもいい。”楽しめなくなった暇つぶし”をするなんて本当に時間の無駄でしか無い、大雑把な言い方だがこの考えは9割方間違いにはならないだろう。
 
 というような事をあれこれ考えた果てに「この作業の果てには虚無しか無いのでは」という不安に心を支配され楽しめなくなっていた艦これをやめて一ヶ月ぐらいたった。やめて正解だったと思う。でも楽しめてた頃はやってて正解だった。ゲームってのは不思議だ。「楽しめてるかどうか」がやるべきか否かの最大の論点になる。
 もちろん楽しいからって人生壊すほどやるのはどうかと思うけど、やりすぎれば人生壊れないものなんて存在しないし、そりゃゲームがどうこう以前の当たり前な事実って訳でして